今回は、サピア・ウォーフの仮説(言語相対論)とは何かを、はじめての人に向けてできるだけわかりやすく解説します。
「使うことばが違えば、見えている世界も違う」——どこかで一度は聞いたことのある話ではないでしょうか。エスキモーには雪を表す単語が何十もあるとか、虹を何色と数えるかは国によって違うとか。なんとなく面白いけれど、本当なのか、どこまで本当なのかと言われると、急に自信がなくなります。それもそのはずで、この話は有名なわりに、いちばん誤解されている言語学の仮説でもあるのです。
結論を先に言ってしまうと、サピア・ウォーフの仮説とは、言語が私たちの思考や認識に影響を与えるという考え方であり、その「影響」は思考を決めつける支配ではなく、注意の向け先をそっと傾けるくらいのものだ、というのが現在の見方です。
「言語が思考を決める」という強い言い方はほとんど否定され、「言語が思考に影響する」という穏やかな言い方が、現代の実験で部分的に支持されている。この強弱の切り分けさえ押さえれば、入り組んで見えるこの話は驚くほどすっきりします。
この記事では、サピア・ウォーフの仮説を次の順番でたどります。
用語を覚えることではなく、「結局どこまで本当なのか」が腑に落ちることを目指します。
「言語が違えば世界が違って見える」って本当?
まずは、よく持ち出される身近な例から入りましょう。日本語では、虹は赤・橙・黄・緑・青・藍・紫の七色だと習います。ところが、虹を六色や五色、もっと少なく数える言語もあります。空にかかる虹そのものは、どこの国でも同じ光の帯です。それなのに、ことばによって「何色か」の答えが変わる。

似た話は色だけではありません。位置を「右・左」で言う言語もあれば、いつでも「東・西・南・北」で言う言語もあります。ものを数えるときの単位や、出来事を語るときの時間の印の付け方も、言語によってさまざまです。こうした例を並べられると、「やっぱり言語で世界の見え方が変わるんだ」と思いたくなります。
こうした逸話が広まるのには理由があります。「ことばが世界を作る」という発想は、ロマンチックで、覚えやすく、つい語りたくなるのです。けれど、面白さと正しさは別もの。だからこそ、一つひとつの例を、強い主張なのか弱い主張なのかに分けて確かめていく必要があります。


面白い例ほど、つい「言語が世界を作っている」とまで言いたくなります。けれど、ここで一気に結論へ飛ぶと、この仮説のいちばん大事な部分を踏み外します。問われているのは「違って見えるか・見えないか」ではなく、「言語が思考をどれくらい縛るのか」という、程度の問題なのです。
サピア・ウォーフの仮説とは:言語が思考に影響するという考え
サピア・ウォーフの仮説とは、ひとことで言えば、私たちが使う言語の語彙や文法のかたちが、ものの見方や考え方に影響を与えるという考え方です。言語相対論、あるいは言語相対性仮説とも呼ばれます。
ここで大事なのは、この仮説が「言語によって脳の作りが変わる」とか「翻訳は不可能だ」と言っているわけではない、という点です。どの言語の話者も、必要があれば虹の細かい色合いを見分けられますし、東西南北だって理解できます。仮説が言っているのは、もっと控えめなことです。母語がふだん区別するように促してくる事柄には、私たちは自然と注意が向きやすい。それだけのことなんです。
「サピア・ウォーフ」という名前の由来
この呼び名には、少し注意が必要です。サピアとウォーフの二人が、共同で「これが我々の仮説だ」と一つの説を立てたわけではありません。
エドワード・サピアはアメリカの言語学者で、言語と文化・思考の関わりを論じました。ベンジャミン・リー・ウォーフは、もともと火災保険会社に勤める技術者でありながら、サピアに学んでホピ語などの研究にのめり込んだ人物です。「サピア=ウォーフの仮説」という呼び名は、二人の死後に後の研究者たちがまとめて名付けたもので、本人たちがそう宣言したのではない、という経緯があります。
なぜ昔の人がこんなことを考えたのか
サピアやウォーフが活動したのは二十世紀の前半です。彼らが向き合っていたのは、ヨーロッパの言語とは文法のしくみが大きく異なる、北米先住民の言語でした。時間の表し方や、ものの数え方、出来事の捉え方が自分たちの母語とまるで違う。その驚きが、「言語が違えば、世界の捉え方も違うのではないか」という問いの出発点になりました。
つまりこの仮説は、机上の思いつきではなく、異なる言語と本気で向き合ったときに自然にわいてくる驚きから生まれているわけです。
「訳せない言葉」は思考の限界ではない
ここで先回りして、よくある誤解を一つ解いておきます。「ある言語にしかない言葉があるなら、他の言語の話者はその概念を持てないのでは」という考えです。たしかに、日本語の「もったいない」や「木漏れ日」を一語で訳せない言語はあります。
けれど、一語で訳せないことと、考えられないことは別です。説明を足せば、どの言語の話者も「もったいない」の感覚を理解できます。語彙の有無が決めるのは、言いやすさ・気づきやすさであって、考えられることの限界ではない。この区別が、次に見る強い仮説と弱い仮説の話へまっすぐつながります。
強い仮説と弱い仮説:「決める」と「傾ける」は別物
サピア・ウォーフの仮説を理解するうえで、絶対に外せないのがこの区別です。同じ「言語が思考に関わる」という話でも、その強さには大きな幅があります。研究者は、これを強い仮説と弱い仮説の二つに分けて整理してきました。

強い仮説(言語決定論):言語が思考を決める
強いほうの立場は言語決定論と呼ばれます。「言語が思考を決定する」、もっと極端に言えば「自分の言語にない概念は考えることすらできない」とする見方です。この立場では、言語はいわば思考の牢獄です。母語という檻の外には出られない、というわけです。
しかしこの強い形は、現在ではほぼ否定されています。もし言語が概念の上限を決めてしまうなら、新しい言葉を学んだり、自分の言語に訳語のない外国語の概念を理解したりできないはずです。実際には、私たちは新しい区別を学べますし、母語にぴったりの一語がなくても、説明を尽くせば理解できます。考えられることの限界を言語が決めている、とまでは言えないのです。
弱い仮説(言語相対性):言語が思考に影響する
弱いほうの立場は言語相対性と呼ばれます。「言語が思考を決定する」のではなく、「言語が思考に影響を与える」「考えやすさのクセを作る」とする見方です。この立場では、言語は牢獄ではなく、世界の見え方をうっすら色づけるレンズのようなものです。
たとえば、母語が青色をいつも二語で区別する話者は、青の濃淡に自然と注意が向きやすくなる。けれど、向こうの濃い青を「考えられない」わけでは決してありません。注意が向きやすいだけです。この穏やかな形なら、後で見るように、現代の実験でいくつもの裏づけが得られています。
身近に言い換えると、こういうことです。眼鏡をかけても見える世界そのものは変わりませんが、ピントの合う場所は変わります。言語というレンズは、世界を作り変えるのではなく、どこにピントが合いやすいかを少しだけずらす。強い仮説と弱い仮説の差は、「世界を作る」と「ピントをずらす」ほどの違いがあるのです。
- 強い仮説(言語決定論)=言語が思考を決める。母語にない概念は考えられない。→ ほぼ否定。
- 弱い仮説(言語相対性)=言語が思考を傾ける。考えやすさのクセが変わる。→ 部分的に支持。
この記事の背骨は、ここにあります。「言語が世界を変える」という有名なフレーズの本当の意味は、考えられなくする(牢獄)ではなく、つい注意が向くクセを作る(レンズ)だった。これさえ握っておけば、残りの話はすべてこの一本の線の上で読めます。
有名な“証拠”ほど、まず疑う:雪語彙とホピの時間
サピア・ウォーフの仮説には、あまりにも有名な「証拠」がいくつもあります。ところが皮肉なことに、有名な証拠ほど、誇張されていたり、後に反証されていたりするのです。ここを通り過ぎないことが、この仮説を正しく理解する近道になります。

「エスキモーには雪の単語が何十もある」は誇張
いちばん有名なのが、この雪語彙の話です。「イヌイット(エスキモー)には雪を表す単語が何十も、何百もある。だから彼らは雪を細かく見分けている」——よく聞く話です。
ところが、これはかなり誇張された都市伝説だと指摘されています。言語学者ジェフリー・パルムの「エスキモー語彙の大いなるでっち上げ」という痛烈な批判はよく知られています。からくりの一つは、イヌイットの言語が抱合語といって、いくつもの要素を一語にくっつけて長い単語を作るタイプだという点にあります。日本語で「降りはじめの雪」「積もった雪」と語をつなげれば言い方がいくらでも増えるのと同じで、「単語の数」を比べること自体があまり意味をなさないのです。
とはいえ、雪や氷とともに暮らす人々が、状態や種類に応じた語彙を実際に豊かに持っていること自体は、ふしぎではありません。それは生活上の必要から来る文化的な関心の表れであって、「語彙が多いから雪に縛られた特別な思考をしている」という話とは別ものです。語彙の豊かさは、関心の地図ではあっても、思考の檻ではないのです。
「ホピ語には時間の概念がない」は後に反証
もう一つ有名なのが、ウォーフ自身が論じたホピ語の時間です。ウォーフは「ホピ語には私たちのような時制がなく、彼らは時間を私たちと違うふうに捉えている」と論じました。これは強い仮説の代表例としてよく引かれます。
しかしのちに、言語学者エッケハート・マロツキの大規模な研究が、ホピ語にも時間に関する豊富な表現や暦の体系があることを示し、ウォーフの主張は行き過ぎだったと反証されました。つまり、強い仮説のいちばんの看板だった例が、足元から崩れたわけです。


俗説を外しても、仮説そのものが消えるわけではありません。否定されたのは「言語が思考を決める」という強い形であって、「言語が注意を傾ける」という弱い形は、別の証拠で検討し直されているのです。
それでも残る手がかり:色・空間・文法が向ける注意
有名な俗説を外してもなお、「言語は思考に影を落としているらしい」と思わせる、地に足のついた手がかりがあります。二十世紀の終わりごろから、こうした問いはきちんとした実験で確かめられるようになりました。ここでは色・空間・文法という三つの入り口から、その手がかりをたどります。いずれも、強い決定論ではなく、弱い「注意の傾き」を指し示す例ばかりです。
色のことば:ロシア語の二つの青
色は、言語相対性を確かめる定番の舞台です。一度は「色の名前は言語ごとにバラバラだ」と思われましたが、研究者バーリンとケイは、基本的な色名のそろい方には言語を超えた共通の順番があることを示しました。これは相対論への強い反論になりました。
ところが話はそこで終わりません。ロシア語には、明るい青と濃い青を指す別々の基本語があります。日本語の「青」と「水色」が、もっと根本的に分かれているイメージです。実験によると、ロシア語話者は明るい青と濃い青の境目あたりの色を見分けるのが、英語話者よりわずかに速いという結果が出ています。母語が二つに分けている境目では、注意がそこに向きやすくなる——弱い仮説にぴったりの結果です。
緑と青の境目:色のスペクトルに切れ目を入れる
色の研究は、青の濃淡だけにとどまりません。世界の言語を見渡すと、緑と青をひとまとめの一語で表す言語や、私たちとは違う場所で色を区切る言語がいくつもあります。日本語自身、信号の「青」が実際には緑寄りであるように、青と緑の境目はあいまいです。
こうした言語の話者を対象にした色の弁別実験では、母語の色名の境目に沿って、見分けやすさがわずかに変わることが報告されています。母語が「ここで色が変わる」と教えている場所では、違いに気づきやすい。逆に、母語がひとまとめにしている範囲の中では、差がいくぶん見えにくくなります。
ここでも効いているのは決定ではなく傾きです。どの言語の話者も、訓練すれば他言語の色の区切りを学べます。母語の区切りは出発点の初期設定であって、変えられない宿命ではないのです。
空間のとらえ方:右・左で言う言語、東・西で言う言語
空間の表し方も、言語によって驚くほど違います。日本語や英語は、ふだん「自分から見て右」「机の左」のように、自分を中心にした言い方をします。これを自己中心的な座標と呼びます。

ところが世界には、右や左をほとんど使わず、いつでも東西南北で位置を言う言語があります。これを絶対的な座標と呼びます。オーストラリアの先住民の言語などが知られていて、「カップはあなたの北側にある」「南の足を動かして」といった言い方をします。こうした言語の話者は、部屋の中でも見知らぬ土地でも、つねに自分がどの方角を向いているかを把握し続けていると報告されています。母語が方角を要求するから、方角への注意が研ぎ澄まされるのです。
この違いは、ことばの問題にとどまりません。研究者が行った実験では、机に並べた物を覚えてから話者の体を百八十度回転させ、別の机で「さっきと同じ順に並べて」と頼みます。すると、自己中心的な言語の話者と絶対方位の言語の話者とでは、並べ直す向きが系統的に食い違う。前者は「自分から見て左から右」を、後者は「東から西」を再現しようとするからです。
文法が向ける注意:性・時間・数
語彙だけでなく、文法のしくみも注意の向きに関わると言われます。たとえば、名詞に男性・女性などの「性」がある言語では、ものを擬人化して説明するとき、その性に引きずられた描写になりやすい、という報告があります。同じ「橋」でも、その語が女性名詞の言語の話者は「優美な」「ほっそりした」と形容し、男性名詞の言語の話者は「頑丈な」「力強い」と形容しがちだ、という有名な調査がよく引かれます。
文法は、時間の捉え方にも関わると論じられてきました。未来のことを現在形でも言える言語と、いつも未来時制で印をつける言語とでは、将来への構えが違うのではないか、という議論もあります。もっとも、これは社会や経済の要因と切り分けにくく、仮説の刺激的な拡張ではあっても、確立した事実とは言えません。
数のことばは、もう少し踏み込んだ入り口です。アマゾンのピダハンという言語には、「1」「2」「たくさん」に当たるような、ごく大ざっぱな数の表現しかないと報告されています。その話者を対象にした実験では、目の前に置かれた品物の数が増えると、同じ数をぴたりとそろえる課題の正確さが落ちる、という結果が出ました。
これは、言語が思考に効くしくみの中でも分かりやすい例です。ことばは、注意の向きを傾けるレンズであると同時に、考えを進めるための道具にもなる。数詞という道具があるかどうかが、数をめぐる思考の精度を左右しているわけです。
- 色:母語が引いた境目で、色の弁別に注意が向きやすい。
- 空間:母語が方角を求めると、方角の感覚が保たれ続ける。
- 文法・数:性や数の表し方が、描写や課題のこなし方に影響しうる。
どの例にも共通するのは、「できる・できない」ではなく「向きやすい・保ちやすい」という、注意の習慣のレベルの話だということです。レンズであってフィルターではない、と言い換えてもいいでしょう。
サピアとウォーフは本当は何を言ったのか
ここで、もとに戻って二人の主張そのものを整理しておきます。俗説と現代の実験を見たあとだと、二人が「何を言い、何を言っていないか」がよく見えてきます。
本人たちは「決定」を言い切ってはいない
意外に思われるかもしれませんが、サピアもウォーフも、「母語によって思考が完全に決まってしまう」という極端な決定論を、生涯一貫して主張したわけではありません。後の人が彼らの議論を「強い仮説」として先鋭化させ、それが一人歩きした面が大きいのです。
ウォーフ自身の文章を読むと、「私たちは母語が引いた線に沿って自然を切り分けている」といった、控えめで示唆に富む言い方が目立ちます。そこにあるのは、断定というより問いかけと気づきの誘いです。後世が受け取ったどぎつい決定論は、原典よりもずっと強い味付けがされていた、と言ってよいでしょう。だから「ウォーフはこう決めつけた」と紹介されている場面では、いったん原典に立ち返る慎重さがあってよいのです。
なぜ「強い仮説」が広まってしまったのか
では、なぜ強い決定論のイメージが広まったのか。一つには、強い主張のほうが刺激的で覚えやすいからです。「言語が世界を決める」はキャッチーですが、「言語が注意を少し傾ける」は地味です。分かりやすさを求めるほど、仮説は実態より強い形で語られてしまう。サピア・ウォーフの仮説が誤解され続けてきた理由の多くは、ここにあります。
だからこそ、この記事の入口で立てた強い・弱いの区別が効いてきます。二人の名のもとに語られる話を聞くときは、それが牢獄の話(強い)なのか、レンズの話(弱い)なのかを、まず仕分ける。それだけで、ずいぶん見通しがよくなります。
それでも二人の問いは生きている
誇張や反証を差し引いても、サピアとウォーフが立てた問いそのものの値打ちは減りません。ことばは、世界をそのまま写す透明な窓なのか、それとも世界の切り分け方を含んだ枠組みなのか——この問いは、今日の認知科学が実験で取り組むテーマそのものです。
二人に足りなかったのは、主張を確かめる方法でした。当時は印象や逸話に頼るしかなかったのです。その問いに測定という道具を与えたのが現代の研究だ、と考えると見通しがよくなります。問いを立てたのがサピアとウォーフ、答え方を更新したのが後世。そう整理すると、評価の浮き沈みも一本の線でつながります。
なぜ一度すたれ、なぜ今またよみがえったのか
サピア・ウォーフの仮説は、評価が大きく揺れ動いてきた仮説でもあります。その浮き沈みを知ると、現在の「弱い形なら支持される」という立ち位置の意味がよく分かります。
フンボルトから続く「言語=世界観」の系譜
「言語がものの見方を形づくる」という発想は、サピアとウォーフが突然思いついたものではありません。十九世紀ドイツの言語学者・思想家フンボルトは、それぞれの言語には固有の「世界観」が宿ると論じました。言語は単なる伝達の道具ではなく、世界を切り分ける枠組みでもある——この考えが、のちのサピアやウォーフへと受け継がれていきます。
つまり言語相対論は、一人の思いつきではなく、長い思想の系譜の上に立っています。だからこそ、何度批判されても完全には消えず、形を変えてよみがえってくるのだとも言えます。
普遍主義の挑戦で、一度は下火に
二十世紀の半ばすぎ、言語学の流れは「言語の違い」より「言語に共通する普遍性」へと大きく傾きました。さきほどの色名の共通順序の発見はその象徴で、「言語はバラバラに見えて、実は共通の枠組みを持つ」という見方が勢いを得ます。同じころ、言語能力は生まれつき全人類に共通だとする生成文法の考えも広まりました。こうした普遍主義の高まりの中で、言語ごとの違いを強調する相対論は、いったん時代遅れのように扱われたのです。
色名の共通順序の発見は、とりわけ決定的でした。もし色の名づけが言語ごとに完全に自由なら、世界共通の順番など現れないはずです。それでも順番が見つかったという事実は、違いの奥に普遍があることを示し、相対論の足場を大きく揺さぶりました。
認知科学の実験で、弱い形がよみがえる
ところが一九九〇年代以降、流れがまた変わります。心理学や認知科学の実験技術が進み、「言語が思考に影響するか」を、印象論ではなく実験で測れるようになりました。さきほどのロシア語の青や、方角で話す言語の研究はその成果です。反応時間を測ったり、言語以外の課題で差を見たりと、主観的な印象に頼らず数字で確かめるやり方が広がったのです。強い決定論ではなく、測定できる範囲での弱い影響なら確かにある——こうして、ネオ・ウォーフ主義とも呼ばれる新しい潮流として、仮説は穏やかな形で復活しました。
この復活には、言語が思考に「いつ」効くのかという論点もついてきました。たとえば、色を見分けるときに言語の影響が出やすいのは、頭の中でこっそり言葉が働いているからではないか、という議論です。言葉を使えないように妨害すると影響が消える、という実験もあり、言語の効果は世界の知覚そのものを書き換えるのではなく、考える過程に寄り添って働くらしい、と考えられています。
言語学の地図の中での位置:生成文法と認知言語学
最後に、この仮説が言語学全体の中でどこに立っているのかを押さえておきましょう。隣の立場と並べると、サピア・ウォーフの仮説の輪郭がくっきりします。

生成文法とは対極にある
チョムスキーに始まる生成文法は、人間の言語能力は全人類に共通で、生まれつき備わっているとする立場です。表面の違いの下に共通の設計があると考えるので、「言語ごとに思考が違う」と見る相対論とは、ちょうど対極に位置します。普遍性を見るか、相対性を見るか。同じ言語という対象をめぐる、向きの違う二つのまなざしだと言えます。
認知言語学とは相性がよい
一方、言語を一般的な認知能力の一部として捉える認知言語学とは、相性がよい関係にあります。認知言語学は、ことばの意味やカテゴリーが人間の経験や捉え方と切り離せないと考えます。「ことばの区切り方が注意の向きに関わる」という弱い相対論は、この見方となめらかにつながります。色や空間の研究が認知科学と二人三脚で進んできたのも、この近さの表れです。
こうして地図の上に置くと、サピア・ウォーフの仮説は「言語の違い」に光を当てる立場だと分かります。違いを強調しすぎれば決定論の罠にはまり、共通性を強調しすぎれば違いそのものが見えなくなる。現在の弱い相対論は、その両極のあいだで、測れる範囲の違いを丁寧に拾おうとする、ほどよく謙虚な立場なのです。
まとめ:言語は世界を映すレンズ
最初の問いに、結論を返してまとめましょう。「言語が違えば世界も違って見えるのか」。答えは、強い意味では「いいえ」、弱い意味では「すこし、はい」です。

言語は、私たちの思考を檻に閉じ込めて「考えられなくする」のではありません。そうではなく、世界のどこに注意を向け、どこに境目を引くかを、そっと傾けるレンズとして働きます。だからこそ、有名な雪語彙やホピの時間といった強い決定論の例は崩れても、色や空間といった弱い影響の例は、現代の実験のなかで生き残っているのです。
- サピア・ウォーフの仮説=言語が思考に影響するという考え方。言語相対論とも呼ぶ。
- 強い仮説(言語が思考を決める)はほぼ否定。弱い仮説(言語が思考を傾ける)は部分的に支持。
- 雪語彙は誇張、ホピの時間は後に反証。有名な“証拠”ほど要注意。
- 色・空間・文法の実験は、「できる・できない」ではなく「注意が向きやすい」を示す。
- 生成文法(普遍主義)とは対極、認知言語学とは相性がよい。
「言語が世界を変える」という言い回しに出会ったら、それが牢獄の話か、レンズの話かを思い出してみてください。強い意味なのか弱い意味なのかを一度仕分けるだけで、この有名な仮説を、誇張にも切り捨てにも傾かず、ぐっと正確に語れるようになります。
よくある質問(FAQ)
最後に、サピア・ウォーフの仮説について検索でよく一緒に調べられる疑問へ、短く答えておきます。
サピア・ウォーフの仮説を一言で言うと?
「使う言語が、ものの見方や考え方に影響を与える」という仮説です。言語相対論とも呼ばれます。ただし「影響」は、思考を決めつける支配ではなく、注意の向き先を傾ける程度のもの、というのが現在の見方です。
強い仮説と弱い仮説はどう違うのですか?
強い仮説(言語決定論)は「言語が思考を決定する/言語にない概念は考えられない」とする立場で、ほぼ否定されています。弱い仮説(言語相対性)は「言語が思考に影響する/考えやすさのクセを作る」とする立場で、色や空間の実験で部分的に支持されています。
エスキモーに雪の単語が何十もあるって本当ですか?
かなり誇張された話です。イヌイットの言語は要素をつなげて長い語を作るタイプなので、「単語の数」を単純に比べること自体が成り立ちにくいのです。語数の多さは文化的な関心の表れではあっても、思考が縛られている証拠にはなりません。
この仮説はもう否定されたのですか?
否定されたのは「言語が思考を決める」という強い形です。「言語が思考に影響する」という弱い形は否定されておらず、むしろ一九九〇年代以降、認知科学の実験を通じて穏やかな形で再評価されています。
生成文法とはどう違うのですか?
生成文法は、言語能力は全人類に共通で生まれつき備わるとする普遍主義の立場です。「言語ごとに思考が変わる」とみる言語相対論とは対極にあります。普遍性を見るか相対性を見るか、というまなざしの向きが逆なのです。
日本語に関わる例はありますか?
虹を七色と数えるのは日本語の習慣で、色の境目の引き方が言語によって違うことの一例です。また「青信号」のように、日本語では青と緑の境目が独特なことも、しばしば言語相対性の身近な例として挙げられます。
外国語を学ぶと、考え方も変わりますか?
弱い仮説の見方からすると、ある程度は「はい」と言えます。新しい言語は、母語が引かなかった境目や、母語が求めなかった区別へと注意を向けさせます。その意味で、外国語学習は世界の新しい切り分け方を一つ増やす営みでもあります。ただし、それで母語の見方が消えるわけではありません。レンズが一枚増える、というイメージです。
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参考文献
この記事を作成するにあたって参考にした、言語と思考をめぐる定番の文献です。
- B.L.ウォーフ『言語・思考・現実』(池上嘉彦 訳、講談社学術文庫)
- E.サピア『言語 ― ことばの研究序説』(安藤貞雄 訳、岩波文庫)
- ガイ・ドイッチャー『言語が違えば、世界も違って見えるわけ』(椋田直子 訳、インターシュアード/早川書房)
- 今井むつみ『ことばと思考』(岩波新書)
- Berlin, B. & Kay, P., Basic Color Terms: Their Universality and Evolution, University of California Press.


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