今回は、虹は何色かという、子どものころに一度は習う問いを扱います。
日本では「赤・橙・黄・緑・青・藍・紫の七色」と教わります。ところが、虹を六色や五色、もっと少なく数える言語もあると聞くと、不思議に思えてきます。空にかかる虹は、どこの国から見ても同じ光の帯のはずなのに、なぜ「何色か」の答えが変わるのでしょうか。
そこでこの記事では、『虹の色数はなぜ言語によって違うのか』、そして『同じ虹を見ても、見え方まで違っているのか』を考えてみたいと思います。
結論を先に言うと、虹はもともと切れ目のない光の連続体で、そこに「どこで区切るか」の線を、言語がそれぞれのやり方で引いているのです。その線の引き方を、順に見ていきましょう。
「虹は七色」は、世界共通の常識ではない

まず、「七色」という数え方が当たり前ではない、というところから始めます。
日本では七色が定番ですが、世界を見渡すと色数はさまざまです。英語圏では伝統的に六色(藍をまとめて数えない)とされることが多く、虹を五色や三色、あるいは「明るい色と暗い色」くらいに大きく分ける文化もあります。
英語圏:六色とされることが多い
文化によっては:五色・三色・二色
ここで大事なのは、どれかが正しくてどれかが間違っている、という話ではないことです。同じ虹を見ているのに、いくつに分けるかが文化によって違う。まずこの事実が、「虹は七色」を絶対の答えだと思っていた私たちには意外に映ります。
では、なぜ数え方にこれだけ幅が出るのでしょうか。その理由は、虹という対象そのものの性質にあります。
空の虹には、もともと色の境目がない

虹は、太陽の光が水滴で分かれてできる光の帯です。波長の長いほうから短いほうへ、色がなめらかに移り変わっているだけで、そこに「ここからが黄、ここからが緑」という線は引かれていません。
赤から橙へ、橙から黄へ、色はじわじわと変わります。どこを境目とするかは、虹のほうが決めているのではないのです。
切れ目のないグラデーションを前にして、「いくつに分けるか」「どこで分けるか」を決めているのは、虹ではなく、それを見る私たちの言葉のほうです。連続したものに線を引いて名前をつける——色の名前は、もともとそういう働きをしています。
連続体のどこに線を引くかが、言語ごとに違う

切れ目のない帯に、何本、どこに線を引くか。ここが言語によって変わります。
七本の線を引けば七色になり、五本なら五色になる。線の位置がずれれば、「これは緑」「いや青」と判定が分かれることもあります。同じ波長の光が、ある言語では一つの色名の真ん中に入り、別の言語では二つの色名の境目あたりに来る、ということが起こるわけです。
この見方に立つと、最初の「七色か六色か」という問いは、虹そのものの問題ではなく、それぞれの言語がどう区切ってきたかの問題だと分かります。色名は、世界をどう切り分けるかを映す、小さな地図のようなものなのです。
ただし、線の引き方は完全にバラバラではない

ここで、「では色の区切りは言語ごとに好き勝手なのか」と思いたくなります。けれど、話はそう単純ではありません。
言語学者バーリンとケイは、世界中の言語の基本的な色名を調べ、色名の増え方にゆるやかな共通の順序があることを示しました。色名が二つしかない言語は「明るい/暗い」に近い区別を持ち、三つめにはたいてい赤が、その後に黄や緑、青……と、おおよそ決まった順番で色名が増えていく傾向が見られた、というのです。
| 基本色名の数 | そろってくる色(おおよその傾向) |
|---|---|
| 2語 | 明るい系 / 暗い系 |
| 3語 | + 赤 |
| 4〜5語 | + 黄・緑 |
| 6語以降 | + 青、さらに茶・紫など |
つまり、区切りの位置には言語ごとの違いがありながら、どんな色から名前がつきやすいかには、人類に共通の傾向もある。色の世界は、完全な早い者勝ちでもなければ、どの言語も同じでもない。その中間にあるのです。
日本語の「青」と「緑」も、境目はあいまい

遠い言語の話に聞こえるかもしれませんが、区切りのあいまいさは、日本語の足元にもあります。
信号機の「進め」を、私たちは「青信号」と呼びます。でも、実際の色はかなり緑寄りです。「青葉」「青々とした草」も同じで、緑のものを「青」と言う言い方が日本語にはたくさん残っています。
英語話者から見れば緑にしか見えない信号を、日本語話者は迷いなく「青」と呼ぶ。青と緑の境目をどこに引くかも、言語と歴史によって動いているわけです。虹の色数と同じことが、日常のすぐそばでも起きています。
区切りが違うと、見え方も少しだけ動くのか
最後に、いちばん気になる問いに触れておきます。区切り方が違うと、色の見え方そのものまで変わってしまうのでしょうか。
ここは慎重に言う必要があります。区切りが違っても、目に届く光は同じです。どの言語の話者も、虹の細かな色合いを見ようと思えば見分けられます。「語がないから見えない」わけではありません。
ただし、母語がはっきり二つに分けている色の境目では、その違いに注意がわずかに向きやすくなる——そんな穏やかな効果なら、実験で確かめられています。言葉は、世界の見え方を決める牢獄ではなく、注意をうっすら傾けるレンズのようなもの。見えなくするのではなく、どこに目が行きやすいかを少しだけ整える、という効き方です。
区切りが違う → その境目あたりに注意が向きやすくなる、くらいの穏やかな話。
だから「虹を五色と数える人には、ほかの色が見えていない」ということにはなりません。見えてはいる。ただ、ことばが引いた線のあたりに、目の付けどころが少し寄る。それが、色のことばと見え方の、ほどよい距離感です。
まとめ:虹は一つ、線の引き方が言語の数だけある
最初の問いに戻りましょう。同じ虹を見ているのに、なぜ「何色か」の答えが変わるのか。
答えは、虹は切れ目のない一つの光の連続体で、そこに何本・どこに区切りを入れるかが言語ごとに違うからです。色そのものが国ごとに違うのではなく、区切り方の地図が違うのです。
- 「虹は七色」は世界共通ではなく、六色・五色・三色など数え方はさまざま。
- 虹そのものには境目がない。連続体のどこに線を引くかを決めているのは言語のほう。
- 区切りは完全にバラバラではなく、色名の増え方には共通の順序の傾向もある。
- 区切りが違っても色は見える。違うのは「注意の向きやすさ」が少し動くこと。
色の名前は、世界をどう切り分けるかを映す小さな地図です。語彙が世界をどう区切るかをもっと一般的に扱ったのが 意味場とは何か、ことばと思考の関係を俗説まで含めて整理したのが サピア・ウォーフの仮説(言語相対論)とは です。同じ色の話題では、ロシア語の二つの「青」 もあわせて読むと、区切りと見え方の関係がさらにはっきりします。


コメント