今回は、「エスキモーには雪を表す単語が何十もある」という、よく聞く話を扱います。
雑学としてあまりにも有名で、「だから彼らは雪を細かく見分けている」「言語が違えば見える世界も違う」という話の代表例として持ち出されます。けれど、これは本当なのでしょうか。
そこでこの記事では、『その「何十も」という数字はどこから来たのか』、そして『単語の数を比べることに、そもそも意味はあるのか』を考えてみたいと思います。
結論を先に言うと、この話は、言葉のしくみの違いを見落としたまま語数だけを数えたことで生まれた、かなり誇張された都市伝説です。どこで話が膨らんだのかを、順に見ていきましょう。
「何十も」という数字は、数えるたびに増えていった

まず、この話がどう広まったのかを確かめます。
もとをたどると、二十世紀のはじめに人類学者フランツ・ボアズが、エスキモー(イヌイット)の言葉には雪に当たる語根がいくつかある、と書きとめたあたりに行きつきます。そのときの数は、ほんの数個でした。
ところが、この話が本や新聞、授業を通じて語り継がれるうちに、数がどんどん増えていきます。
広まる過程:「7語」「23語」「50語」
最終的に:「100語以上」「400語」
おかしな話です。新しい調査で次々と単語が見つかったわけではありません。同じ一つの話が、人から人へ伝わるたびに数字だけが大きくなっていったのです。
つまり「何十も」という数字そのものが、きちんと数えた結果ではありません。ここがすでに、最初のつまずきです。では、なぜこんなに数が膨らむ余地があったのでしょうか。カギは、イヌイットの言葉の作りにあります。
イヌイットの言葉は、一語をどんどん長く作れる

イヌイットの言葉は、日本語や英語とは作りがかなり違います。抱合語(ほうごうご)と呼ばれるタイプで、いくつもの意味の部品を一つの語にくっつけて、長い単語を作っていけます。
英語なら “the snow that fell this morning”(今朝降った雪)と、いくつもの語を並べて言う内容を、イヌイットの言葉では語尾や接辞をつないで、まるごと一語で表せてしまいます。
こうした部品を足していくと、一つ一つが別の「単語」に見える。
ここで何が起きるかというと、「雪」に関係する部品を足すたびに、新しい一語ができあがってしまうのです。「降る雪」「積もった雪」「吹きだまりの雪」を、それぞれ別単語として数えれば、語数はいくらでも増やせます。
日本語で考えてみると分かりやすいでしょう。「雪」「粉雪」「ぼたん雪」「初雪」「根雪」「どか雪」……と、雪にまつわる言い方を数え上げれば、日本語だって相当な数になります。英語にも snow, sleet, slush, blizzard, flurry などがあります。雪と関わりの深い土地なら、雪の言い方が豊かになるのは自然なことで、それ自体は珍しくありません。
「単語をいくつ数えるか」という土俵自体が成り立たない

ここまで来ると、本当の問題が見えてきます。それは、そもそも「単語の数」を言語どうしで比べること自体に無理がある、という点です。
イヌイットの言葉のように、一語をいくらでも長く合成できるタイプでは、「単語」をどう数えるかの基準じたいが、日本語や英語とまるで違います。部品を足してできた一語を別単語と数えるか、同じ語のバリエーションと見るかで、答えは何倍にも変わってしまうのです。
物差しがそろっていないものを「どちらが多い」と競わせても、意味のある比較にはなりません。「何十も」という数字が宙に浮いているのは、このためです。
では真っ赤な嘘かというと、そうとも言い切れない

ただし、この話を「全部でたらめ」と切り捨てるのも、行きすぎです。
雪と深く関わって暮らす人々が、雪の状態を言い分けるための表現を豊かに持っている——この部分は、ごく自然なことで、間違いではありません。狩りや移動の安全に直結するなら、固く締まった雪、踏み抜く雪、犬ぞりに向く雪を区別する言い方が発達するのは当たり前です。
✕ だから「単語が何十も」と数で示せる … 数え方の根拠があやしい
✕ だから「世界が違って見える」と言い切れる … さらに飛躍がある
問題なのは「雪の言い方が豊かだ」ということではなく、それを「単語が何十も」という数字に置きかえ、さらに「思考が違う」という話にまで広げてしまうところにあります。
「語数が多い→世界が違う」には、二つの飛躍がある

この雪語彙の話が魅力的に聞こえるのは、「単語が多い → だから細かく見分けている → だから世界が違って見える」という、すっきりした筋書きになっているからです。
けれど、この筋書きは三つの主張を矢印でつないでいるだけで、矢印のところに飛躍が隠れています。
| 主張のつながり | 本当にそう言えるか |
|---|---|
| 雪の単語が多い | 数え方の基準があやしい(前の章で見たとおり) |
| ↓ だから細かく見分けている | 語が多いことと知覚の細かさは別。語が少なくても見分けはできる |
| ↓ だから世界が違って見える | 「注意の向きやすさ」と「世界が違う」は同じではない |
語彙が豊かなのは、その文化が雪に強い関心を持っている表れではあります。でも、関心の表れであることと、思考が雪に縛られている証拠であることは、まったく別の話です。雪と縁の薄い土地の人でも、必要があれば雪の違いはちゃんと見分けられます。語がないから見えない、というわけではないのです。
この「言葉が違えば思考が決まる」という強い見方は、言語学では言語決定論と呼ばれ、今ではほぼ支持されていません。雪語彙の話は、その決定論を支える看板のように使われてきましたが、看板そのものがぐらついている、というわけです。
まとめ:「何十も」は、数え方と伝言ゲームが作った数字
最初の問いに戻りましょう。「エスキモーには雪の単語が何十もある」は本当か。
答えは、雪を言い分ける表現が豊かなのは本当だが、「何十も」という数字は、抱合語という言葉の作りと、伝わるうちに膨らんだ伝言ゲームが生んだもので、そのまま受け取るべきではない、ということです。
- 「何十も」という数字は調査の結果ではなく、伝わるうちに膨らんだもの。
- イヌイットの言葉は抱合語で、部品を足せば一語をいくらでも作れる。だから語数を数える基準がそろわない。
- 雪を言い分ける表現が豊かなのは本当。問題は、それを語数や「思考の違い」に直結させること。
- 「語が多い→世界が違う」という強い決定論は、今ではほぼ否定されている。
有名な雑学ほど、誰かが確かめたわけではないまま広まっていることがあります。この雪語彙の話は、その代表例です。言葉と思考の関係を、こうした俗説の落とし穴まで含めて整理したのが サピア・ウォーフの仮説(言語相対論)とは です。あわせて、語彙が世界をどう区切るかを扱う 意味場とは何か、言語と文化の関わりを考える 言語と文化の関係とは もおすすめです。


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