今回は、「ホピ語には時間の概念がない」という、言語学でとても有名な主張を扱います。
北米先住民のホピの人々のことばには、私たちのような時制がなく、だから彼らは時間というものを私たちとは根本的に違うふうに捉えている——こう論じられ、「言語が思考を決める」ことの代表例として、長く語り継がれてきました。けれど、これは本当なのでしょうか。
そこでこの記事では、『誰がどう主張したのか』、そして『その主張はその後どうなったのか』を、順を追って確かめたいと思います。
結論を先に言うと、「ホピ語に時間の概念がない」という主張は、のちの大規模な研究によって反証されました。文法に時制がないことと、時間という概念を持たないことは、まったく別のことなのです。その経緯を見ていきましょう。
ウォーフは「ホピには時間がない」と論じた

まず、この主張がどこから来たのかを確かめます。
言い出したのは、ベンジャミン・リー・ウォーフという人物です。もともと火災保険会社の技術者でしたが、言語学者サピアに学び、ホピ語の研究にのめり込みました。彼は、ホピ語には過去・現在・未来をきっちり分ける時制がなく、時間を「過ぎていく一直線のもの」として捉える発想自体が薄い、と論じたのです。
だからホピの人々は、時間を私たちとは違うふうに捉えている。
→ 言語のかたちが、時間という概念のもち方そのものを決めている。
これは、「言語が思考を決める」という強い見方——言語決定論——の、もっとも分かりやすい看板として引かれてきました。言語が違えば、時間という根っこの概念まで違ってしまう。そう聞くと、確かに衝撃的です。けれど、なぜこの主張はこれほど人を惹きつけたのでしょうか。
なぜ、この主張はこんなに広まったのか

この話が魅力的だったのには、理由があります。
一つは、「私たちの当たり前は、当たり前ではないかもしれない」という驚きを与えてくれるからです。時間が流れていくという感覚は、誰にとっても疑いようのないものに思えます。それが「言語しだいで違う」と言われると、世界の見え方がぐらりと揺らぐ感覚があります。
もう一つは、話がとてもきれいにまとまっている点です。「時制がない → 時間の概念がない」と一直線につながっていて、覚えやすく、語りやすい。
魅力的で覚えやすい——だからこそ、この主張は教科書や雑学を通じて広く伝わりました。しかし、本当にホピ語に時間の表現がないのかを、腰を据えて確かめた人がいました。
のちの大規模な研究が、これを反証した

ウォーフの主張から数十年後、言語学者エッケハート・マロツキが、ホピ語の時間表現を徹底的に調べ上げました。
その結果は、ウォーフの主張とは正反対でした。マロツキは、ホピ語に時間に関する豊富な表現や、暦のような体系、時の単位を表す言い方が数多くあることを示したのです。時を表す語、時間に関わる言い回し、季節や日々を区切るしくみ——どれも、しっかり存在していました。
つまり、言語決定論のいちばんの看板だった例が、丹念な調査の前に崩れたわけです。「ホピには時間の概念がない」は、確かめてみれば成り立たない主張でした。とはいえ、そもそもウォーフはなぜこんな大きな取り違えをしたのでしょうか。その鍵が、次の区別にあります。
「文法に時制がない」と「時間を感じない」は別のこと

ウォーフの主張のいちばんの問題は、文法のかたちと、頭の中の概念を、直結させてしまったところにあります。
ある言語の文法に、過去・現在・未来をきっちり示すしるしがないとしても、それは「その言語の話者が時間を感じていない」ことを意味しません。文法でいちいち印をつけなくても、人は時間を理解し、昨日と明日を区別し、順序立てて物事を語れます。
ここを混同すると、「時制がない=時間がない」という飛躍が生まれます。けれど実際には、文法のしるしの有無は、概念の有無ではなく、言語ごとの”何にしるしをつけるか”の好みの違いにすぎないのです。
そもそも、文法の時制は言語によって濃淡がある

この「文法の時制」と「時間の理解」が別だということは、ホピ語に限った特殊な話ではありません。
世界の言語を見渡すと、動詞をいちいち過去形・現在形に変えなくても成り立つ言語はめずらしくありません。たとえば中国語は、動詞の形そのものを時制で変えず、「昨日」「もう」といった語や文脈で時の前後を示します。それでも、中国語話者が時間を理解していないなどとは、誰も言いません。
| 言語 | 時間の示し方の傾向 | 時間を理解しているか |
|---|---|---|
| 英語 | 動詞を時制で変える(go / went) | もちろん理解している |
| 日本語 | 時制に加え、「〜ている」など相も使う | もちろん理解している |
| 中国語 | 動詞は変えず、語や文脈で示す | もちろん理解している |
文法が時間をどう扱うかは、言語ごとにかなり幅があります。しるしを動詞につける言語、別の語に任せる言語、文脈にゆだねる言語——どれも、話者は時間をきちんと理解しています。ホピ語も、この幅の中の一つだったというだけのことです。「時制が薄い」ことを「時間がない」と読みかえてしまったのが、最初のつまずきでした。
まとめ:看板が崩れても、残る本当の教訓
最初の問いに戻りましょう。ホピ語には本当に時間の概念がないのか。
答えは、ない、というのは誤り。のちの研究で、ホピ語に豊富な時間表現があることが示され、ウォーフの主張は反証された、ということです。文法に時制が目立たないことと、時間という概念を持たないことは、まったく別なのです。
- ウォーフは「ホピ語に時制がなく、時間の概念も違う」と論じ、言語決定論の看板になった。
- のちにマロツキの大規模研究が、ホピ語に豊富な時間表現や暦があることを示し、反証した。
- 「文法に時制がない」ことと「時間を理解していない」ことは、まったく別。
- 文法の時制は言語ごとに濃淡があり、薄くても話者は時間を理解している。
有名な”証拠”ほど、まず立ち止まって確かめる——この教訓は、雪語彙の話とも共通します。「エスキモーに雪の単語が何十も」は本当か もあわせてどうぞ。ことばと思考の関係を、強い決定論と弱い仮説に分けて整理した全体像は サピア・ウォーフの仮説(言語相対論)とは、英語の時制そのものについては なぜ現在形が習慣を表すのか も参考になります。


コメント