- can は「できる」だけだと思っていたのに、Dogs can bite. は「犬は噛むことがある」と訳される。
- I can swim. の can と It can be dangerous. の can は、同じ単語なのに意味が離れて見える。
- 「能力」と「可能性」を別々の用法として覚えると、なぜ同じ can が担当するのかが見えにくい。
- この記事では、can を「用法の一覧」ではなく、出来事が実現できる余地を開く語として考える。
助動詞 can を習うとき、最初に出てくる訳語はたいてい「できる」です。
I can swim. なら「私は泳げる」。これはわかりやすいですね。主語の中に、泳ぐための力や条件があるように感じられます。
ところが、少し進むと次のような文に出会います。
犬は噛むことがある。
ここで急に、can は「できる」ではなく「ありうる」「ことがある」と訳されます。しかも、犬が「噛む能力を持っている」という話だけなら I can swim. と同じように見えるのに、文全体としては「犬というものには噛む可能性がある」という一般的な注意に聞こえます。
この瞬間、読者の中に小さな違和感が生まれます。
なぜ can は、人の能力だけでなく、出来事の可能性まで表せるのでしょうか。

can は「できる」って覚えたのに、「犬は噛むことがある」だと急に確率の話みたいに見えます。

そこが面白いところです。can は「実際にした」ではなく、「実現する条件が開いている」と見ると、能力と可能性がつながってきます。

この記事では、既存のcan の用法とコアイメージの記事を前提にしつつ、特に「できる」と「ありうる」のつながりだけに焦点を絞ります。can と be able to の細かな違いは別記事で扱われているため、ここでは深追いしません。
先にベース記事を読むと理解しやすいです
この記事は用法別の深掘りです。基本情報やコアイメージは can の用法とコアイメージ で確認してから読むと、訳語ではなく助動詞の働きから理解しやすくなります。助動詞全体の見取り図は 助動詞の種類・分類 にまとめています。
違和感の正体は「できる」と「起こりうる」を別物に見すぎること
まず、読者が引っかかる場所をはっきりさせましょう。can の能力用法と可能性用法は、日本語訳だけを見るとかなり違って見えます。
| 英文 | 自然な訳 | 一見した意味 |
|---|---|---|
| I can swim. | 私は泳げる。 | 能力 |
| This road can be slippery. | この道は滑りやすいことがある。 | 可能性・性質 |
| Accidents can happen. | 事故は起こりうる。 | 出来事の可能性 |
日本語では「できる」は人やものの力に聞こえます。一方、「ありうる」「ことがある」は出来事の発生確率や一般的な傾向に聞こえます。
だから、訳語だけで見ると、can は途中で役割を変えたように見えます。最初は「人の能力」を表す語だったのに、いつの間にか「世界で起こる可能性」を表す語になったように感じるのです。
しかし、英語側の can は、必ずしも「能力」と「可能性」を完全に別々の箱に入れているわけではありません。
「泳げる」は、まだ泳いでいない
I can swim. と言うとき、話し手は「いま実際に泳いでいる」と言っているわけではありません。
泳ぐ技術がある。水に入れば泳ぐことができる。つまり、泳ぐという出来事を現実にする条件が、主語の側に備わっているということです。
ここで大事なのは、can は行為の実現そのものではなく、実現可能な状態を表すという点です。
泳ぐ出来事が、主語の能力によって実現できる状態にあるという説明です。
この時点で、can はすでに「現実」と少し距離を置いています。実際に起きた出来事ではなく、起きるための道が開いていることを示しているからです。
「起こりうる」も、まだ起きていない
一方、Accidents can happen. も「事故が今起きている」という意味ではありません。
事故が起こる条件は、世界のどこかにあります。人間の不注意、天候、道路状況、機械の故障など、さまざまな条件が重なると事故は現実になります。
この文の can は、事故という出来事が現実になる道が、世界の側で閉じていないことを示します。
事故が起きる道が、状況の側に開かれているという説明です。
こう見ると、I can swim. と Accidents can happen. はかなり近づきます。どちらも、まだ現実化していない出来事について、「それが起こる条件がある」と述べているからです。
can の中心は「実現条件がそろっている」という見方である
can を「できる」とだけ覚えると、主語の能力に意識が寄りすぎます。そこで一度、訳語から離れて、can が置いている構造を見てみましょう。
- その出来事は、すでに起きた事実なのか。
- それとも、起きるための条件があるという話なのか。
- その条件は、主語の内側にあるのか。
- それとも、状況・社会・世界の側にあるのか。
この問いを置くと、can の能力と可能性は「別々の用法」というより、実現条件の置き場所が違うだけに見えてきます。

能力の can は、条件が主語の内側にある
I can swim. では、泳ぐ条件は主語の側にあります。身体能力、経験、技術、知識などがそろっているため、泳ぐという行為を実現できます。
She can solve this problem. でも同じです。問題を解く力や知識が主語の側にあるから、solve this problem という出来事が実現可能になります。
このとき can は、主語の内側にある条件を指しているため、日本語では「できる」と訳されやすくなります。
もちろん、「能力」と言っても、筋力だけではありません。知識、経験、資格、道具、心理的な余裕なども、行為を実現する条件になりえます。
だから can は、単に「才能がある」というより、「その行為ができる状態にある」と読む方が広く使えます。
可能性の can は、条件が状況の側にある
This road can be slippery. では、滑る条件は「この道」という対象や状況の側にあります。雨の日、落ち葉、凍結、坂道などの条件がそろうと、その道は滑りやすくなります。
Dogs can bite. でも、bite の条件は犬という存在や状況の側にあります。すべての犬が今噛むわけではありません。しかし、犬には噛む能力があり、特定の状況では実際に噛むことがありえます。
このとき can は、主語の内側だけでなく、主語を取り巻く条件を含めて「その出来事は現実になりうる」と述べています。
ここで「能力」と「可能性」は分断されません。能力も、出来事を現実化する条件の一種です。可能性も、出来事を現実化する条件の一種です。
違うのは、その条件をどこに置いて読むかです。
can は「現実」ではなく「現実化の余地」を表す
can の面白さは、出来事を現実として断言しないところにあります。
I swim. なら、習慣や事実として「私は泳ぐ」と言っています。I can swim. なら、泳ぐ力はあるが、今泳いでいるとは限りません。
This road is slippery. なら、その道が滑りやすい状態だと断言しています。This road can be slippery. なら、条件によって滑りやすくなることがある、と余地を残しています。
現実そのものを述べるのではなく、現実になりうる範囲を示す。
この距離感こそが、「できる」と「ありうる」をつなぎます。can は事実報告の語ではなく、出来事が現実へ向かう入口が開いていることを示す語なのです。
「できる」は人間中心の訳で、「ありうる」は出来事中心の訳である
ここで、日本語訳の側にも目を向けてみましょう。can が混乱して見える理由の一部は、英語そのものではなく、日本語の訳し分けにあります。
| 見る中心 | 日本語訳 | can の見え方 |
|---|---|---|
| 人・主体 | できる | 能力・技能 |
| 行為の許容条件 | してもよい | 許可・容認 |
| 出来事・状況 | ありうる / ことがある | 一般的可能性 |
英語では同じ can が、出来事の前に置かれます。しかし日本語では、文の見方によって訳語が変わります。
主語が人で、行為が能力として読みやすければ「できる」。社会的に許される行為なら「してもよい」。出来事や性質の一般論なら「ありうる」「ことがある」。
この訳し分けは自然です。ただし、訳語が自然であるほど、英語側の共通点は見えにくくなります。

日本語の「できる」は、主語の力を強く連想させる
日本語の「できる」は、かなり主体寄りの言葉です。
泳げる、読める、話せる、解ける。どれも、主語の中に能力がある感じを強く出します。そのため、can = できる と覚えると、can の中心が「人の能力」に固定されやすくなります。
しかし英語の can は、人間の能力だけに閉じていません。出来事の実現可能性を広く扱うため、主語が人でなくても自然に使われます。
「ありうる」は、出来事側から can を訳した結果である
Accidents can happen. を「事故はできる」と訳すことはできません。
日本語では事故が「できる」とは言いにくいからです。事故は人間のように能力を持つ主体ではなく、起きる出来事です。
そこで日本語は、出来事側に焦点を合わせて「事故は起こりうる」「事故は起こることがある」と訳します。
これは can の意味が突然変わったというより、日本語が、同じ実現可能性を別の角度から訳したと考える方が自然です。
主語が「できる主体」に見えるなら「できる」。
主語が「起こる場面・性質・出来事」に見えるなら「ありうる」「ことがある」。
can の「ありうる」は、単なる一回の予想ではなく一般的な可能性を表しやすい
ここで、can の可能性用法をもう少し丁寧に見ておきます。なぜなら、日本語の「可能性」と聞くと、「明日雨が降るかもしれない」のような一回の予想を思い浮かべやすいからです。
しかし can の「ありうる」は、しばしば一回限りの予想ではなく、一般的にそういうことが起こる余地があるという意味で使われます。
- ある種類のものに備わる性質
- 条件がそろえば起こる一般的な出来事
- 注意・警告・説明としての「そういうことはある」
- 一回の予測より、反復可能な傾向
Cambridge Grammar でも、It can be dangerous to cycle in the city. のような文は、一般的事実や既知の強い可能性を表すものとして説明されています。
It can be dangerous. は「今危険かも」だけではない
It can be dangerous to cycle in the city. は、「今この瞬間、危険かもしれない」という一回の予想だけではありません。
都市で自転車に乗ることは、交通量、車道の狭さ、歩行者、天候などの条件によって危険になりうる。つまり、一般論として危険が発生する条件がある、という意味です。
ここでも can は、特定の未来予測というより、あるタイプの状況が持つ実現可能性を表しています。
能力と一般的可能性は、どちらも「反復できる条件」を含む
I can swim. の能力も、一回だけの偶然ではありません。今日だけたまたま水に浮いたという話ではなく、必要な場面で反復して泳げるという意味を含みます。
Dogs can bite. の可能性も、一回だけの偶然ではありません。犬という種類の存在には、条件がそろえば噛むことがあるという一般的な性質がある、という意味です。
この点でも、能力と一般的可能性は近い関係にあります。

学校文法の「用法」は、見えた結果を整理するラベルである
ここまでの説明は、学校文法の用法分類を否定するものではありません。むしろ用法名は、読解の入口としてかなり便利です。
ただし、用法名は「意味の発生源」ではありません。能力、許可、可能性、推量といった名前は、文脈の中で can がどう見えたかを整理したラベルです。
can の奥には、「実現の扉が開いている」という共通感覚があり、文脈によって能力・許可・可能性として見えてきます。
用法一覧は便利だが、一覧だけではつながりが見えない
can の用法を表で覚えることには価値があります。
能力、可能性、許可、依頼、否定文での推量。これらを知らなければ、英文を読むときに候補が立ちません。
しかし、一覧だけで止まると、can は意味の寄せ集めに見えます。「なぜこの1語にそんなに意味があるのか」という問いが残ります。
そこで必要になるのが、分類の背後にある見方です。
まず用法名で読めるようにする。
そのあとで、用法名を生む共通感覚を考える。
コアイメージは万能の魔法ではなく、読みの方向を作る道具である
ここで注意も必要です。can の中心を「実現可能性」と見れば、すべての例文が機械的に解けるわけではありません。
たとえば、Can you open the window? は文脈上、相手の能力を純粋に尋ねている場合もあれば、依頼として働く場合もあります。You can leave now. は、能力ではなく許可として読むのが自然です。
これらは、can の意味だけでなく、話し手と聞き手の関係、場面、丁寧さ、権限の所在によって決まります。
この射程を押さえると、コアイメージを無理に振り回さずに済みます。
can は「何でも実現可能性で説明できる」と言うより、「能力や可能性や許可が、実現可能性という観点で近い場所にある」と見るのがよいでしょう。
can と may の違いまで広げると、「可能性」の種類が見えてくる
この記事の中心は ability と possibility ですが、少しだけ may との関係にも触れておきます。なぜなら、can の「ありうる」を理解するとき、may の「かもしれない」と混同しやすいからです。
can も may も、日本語では「可能性」を表すことがあります。しかし、その可能性の置き方は同じではありません。
| 助動詞 | 可能性の見え方 | ざっくりした感覚 |
|---|---|---|
| can | 条件がそろえば起こることがある | 一般的・性質的 |
| may | その命題が成り立つかもしれない | 判断保留・推量 |
この違いは、can と may の許可の違いともつながります。can は、場面や状況の中で行為が可能になる条件に寄りやすく、may は話し手の判断や許容に寄りやすい傾向があります。
can は「世界の側にそうなる道がある」
Dogs can bite. と言うとき、話し手は「この犬が今すぐ噛むかもしれない」とだけ言っているわけではありません。
犬という存在には、条件次第で噛むことがある。だから注意した方がよい。そういう一般的な性質を述べています。
ここでは、可能性が「世界の側」にあります。犬という生き物、噛むという行為、警戒すべき状況が、実現条件を作っています。
may は「話し手の判断の中に余地がある」
He may be at home. では、可能性は話し手の判断の中にあります。
彼が家にいるという命題について、話し手は断定していません。しかし、否定もしていません。「そうかもしれない」という余地を残しています。
can の一般的可能性と may の推量的可能性を分けると、「可能性」という日本語の大きな箱の中に、少なくともいくつかの種類があることが見えてきます。
may の「かもしれない」は、話し手の判断の余地に寄りやすい。
まとめ:can は「できる」ではなく「実現の扉が開いている」と見る
最後に、この記事の問いへ戻りましょう。
なぜ can は「できる」だけでなく「ありうる」も表すのでしょうか。
答えは、can の中心を「できる」という日本語に固定しすぎないことにあります。
can は、出来事が現実になるための扉が開いていることを表す助動詞です。
その扉を開けている条件が主語の内側にあれば、「泳げる」「解ける」のように能力として見えます。条件が状況や世界の側にあれば、「起こりうる」「ことがある」のように一般的可能性として見えます。条件が社会的な許容であれば、「してもよい」という許可にも見えます。
- can は、実際に起きた出来事ではなく、実現可能な状態を表す。
- 能力の can は、実現条件が主語の側にあるときの読み。
- 可能性の can は、実現条件が状況や世界の側にあるときの読み。
- 「できる」と「ありうる」は、日本語訳では離れて見えるが、英語側では実現可能性としてつながる。
- コアイメージは万能ではないが、用法一覧の背後にある見方を作ってくれる。
can を「できる」と訳すことは、もちろん間違いではありません。むしろ最初の入口としては非常に便利です。
ただ、その入口だけで止まると、Dogs can bite. や Accidents can happen. のような文が急に別物に見えてしまいます。
そこで、少しだけ視点をずらしてみてください。
can は「できる」ではなく、現実化の余地を置いている。
そう見えるようになると、助動詞 can は単なる訳語の暗記対象ではなく、「英語が出来事をどう現実に近づけるか」を見せてくれる小さな窓になります。
法助動詞 can の用法とコアイメージ
can と be able to の違い
can と may の「許可」の違い
なぜ can not ではなく cannot なのか
関連して読みたい助動詞記事
基本情報やコアイメージを押さえたら、同じ助動詞の別用法や近い助動詞との比較も読むと、意味の広がりが立体的に見えてきます。


コメント