「五文型は本当に必要なのか」と聞かれたら、私の答えは必要である。
これは、五文型なら英語のすべてを説明できるという意味ではない。むしろ逆だ。五文型には、言語分析の枠組みとして見れば明らかな穴がある。それでも、英語を学ぶための道具としては、手放すには惜しいほどよくできている。
私は上智大学に在籍していたころ、古田直肇教授の授業を受けていた。卒業後、自分でも英文法について書くようになってから、教授の「受験英語擁護論――五文型の教育的妥当性について――」を読み返し、あらためて強く頷いたことがある。
この区別をしないまま学校文法を論じると、議論はたいていおかしくなる。精密でないから役に立たない。例外があるから間違っている。もっと新しい理論があるから古い説明は捨てるべきだ。そんな話になってしまう。
でも、教えるための文法は、研究のための文法を薄めたものではない。目的の違う、別の仕事である。
今回は、しばし日本の英語教育の悪玉論として語られる〈五文型〉について、色々と綴っていきたい。
そもそも五文型とは何か
議論の前提をそろえておきたい。五文型とは、英文の骨組みを、主語(S)・動詞(V)・目的語(O)・補語(C)の組み合わせによって5つに整理する方法である。
| 文型 | 基本形 | 例文 | 大まかな関係 |
|---|---|---|---|
| 第1文型 | SV | Birds fly. | 鳥が飛ぶ |
| 第2文型 | SVC | She is happy. | 主語がどんなもの・状態かを述べる |
| 第3文型 | SVO | I read the book. | 動詞が目的語を伴う |
| 第4文型 | SVOO | He gave me a book. | 「誰に」「何を」を続ける |
| 第五文型 | SVOC | They call him Tom. | 目的語について補語が説明する |
Sは文が何について述べるかの中心、Vはその中心について述べる述語動詞である。Oは他動詞の後ろに置かれ、その働きを受ける名詞相当の語句、Cは主語または目的語がどんなものかを補う要素である。Sが動作の主体、Oが動作の対象になることは多いが、それだけで決まるわけではない。場所・時・方法などを加える修飾語はMと表すことがあり、通常は五文型の骨組みには数えない。
たとえば She is happy. の happy は、She がどんな状態かを述べるCである。They call him Tom. の Tom は、him を何と呼ぶのかを述べるCである。それに対して I read the book. の the book は「読む」という動作の対象なのでOになる。
ここで注意したいのは、「五文型」と「第五文型」は別の言葉だということだ。五文型はSVからSVOCまでをまとめた分類体系全体を指し、第五文型はそのうちSVOCだけを指す。今回考えたいのは、SVOCだけの必要性ではなく、この5つの型で英文の骨組みを見る方法そのものの必要性である。
五文型を支持する立場は、何を評価しているのか
五文型が必要だと考える人は、主にその教育上の使いやすさを評価する。
英文の骨組みを少ない記号で見えるようにできる
英文には、形容詞句、副詞句、関係詞節など、いくつもの語句が加わる。文が長くなっても、まずSとVを探し、その動詞の後ろにOやCが必要かを考えれば、文の中心を見失いにくい。S・V・O・Cは、複雑な英文から骨格を取り出すための共通語になる。
動詞の働きと、その後ろに来る要素を結びつけられる
同じような語順に見えても、動詞が何を要求するかによって、後ろの語の関係は変わる。Call me Pat. の Pat はmeの呼び名だが、Call me a taxi. の a taxi は呼んでもらう対象である。五文型で考えると、単語の訳だけでなく、動詞とその後ろにある語の関係へ目を向けられる。
5つなら、初学者にも比較的扱いやすい
分類を細かくすれば説明できる現象は増えるが、学ぶ項目も増える。支持する立場では、五文型はすべてを説明する最終理論ではなく、教えやすさ、学びやすさ、使いやすさの均衡を考えた入口だと捉える。学校で共通して使える簡潔な見取り図だからこそ価値がある、というわけだ。
五文型を否定する立場は、何を問題にしているのか
一方、「五文型はいらない」と考える人の批判にも、もっともな点がある。主に問題にされるのは、英文の仕組みを5つだけで正確に説明できるのかということだ。
5つの型では収まりにくい文がある
代表的なのが、場所などを表す副詞句を外しにくい文である。He lives in London. でliveを「住んでいる」の意味に取れば、場所句は意味のうえで強く求められる。He put the car in the garage. では、in the garage がなければ「車をどこへ移したのか」が示されない。それなら副詞句も主要素と認め、SVAやSVOAという型を立てた方がよいのではないか、という批判が生まれる。
OやCの境界が、単純な公式ほど明快ではない
Cを「SまたはOとイコールになる語」と習うことが多い。しかし、She kept the door open. のopenはdoorの状態を述べ、I saw him run. のrunはhimの動作を述べる。どちらも単純な「イコール」だけでは説明しきれない。現実の英文に近づくほど、学校で習う定義の境界が揺れることはある。
文型当てが目的になると、かえって英語から離れる
「これは第何文型か」を答える問題ばかり解いていると、本来は意味をつかむための分類が、番号を当てるゲームに変わりかねない。会話では文型名を思い出さなくても通じることが多く、動詞の項構造や結合価を学んだ方が精密に説明できる。それなら、古い5分類に時間を使う必要はないという主張である。
同じ事実を見ても、評価する物差しが違う
必要派と不要派は、必ずしも別々の事実を見ているわけではない。五文型に例外や曖昧さがあることは、必要派も認められる。違うのは、その不完全さをどの物差しで評価するかである。
| 論点 | 五文型を支持する立場 | 五文型を否定する立場 |
|---|---|---|
| 分類が5つであること | 覚えやすく、共通の入口にできる | 必要な要素を分類からこぼしてしまう |
| 例外や曖昧さ | 限界を教えたうえで使えばよい | 説明体系として不正確である |
| 文型を学ぶ目的 | 英文の骨組みを見る習慣をつける | 番号当てに陥りやすく、実用性が低い |
| より新しい理論との関係 | 学習段階に応じて先へ進めばよい | 初めから項構造などで説明した方がよい |
つまるところ、否定する立場は記述の精密さだけを問題にしているのではない。単純化が学習を助けるどころか、誤解を固定するのではないか。番号当てに時間を使うより、別の教え方の方が学びやすいのではないか。そこまで含めて問うている。
それでも支持する立場は、限界を明示し、番号当てを目的にしない教え方なら、学習の足場として得られる利益の方が大きいと考える。「五文型だけではすべてを説明できない」という正しい指摘から、「だから教える価値がない」という別の結論へ、一足飛びに進む必要はない。
私も、5つでは処理しにくい文があることも、文型当てが目的になりうる危険も認める。そのうえで、英文の構造を見る最初の補助線として得られるものの方が大きいと判断している。
私が五文型を「必要」だと思う理由
私が五文型を必要だと思うのは、英文を5種類にきれいに仕分けられるからではない。英文の骨組みに目を向ける習慣を、学ぶ側に与えてくれるからだ。
英語の文を前にしたとき、単語の意味を左から順につなげるだけでは、どこかで読めなくなる。主語はどこまでか。述語動詞はどれか。その動詞は目的語を取るのか。後ろの語は目的語を説明しているのか。それとも修飾語なのか。S・V・O・Cは、こうした関係を考えるための補助線になる。
番号を暗記することが大切なのではない。第3文型と第五文型の番号を取り違えたところで、英文の関係を正しくつかめているなら大きな問題ではない。必要なのは「第何文型か」を当てる能力ではなく、語と語の関係を、自分で見抜くための視点である。
古田教授の授業を受けてから年月が経ち、自分でも英文法について書くようになった。そこで以前よりはっきり見えるようになったのが、研究のための説明と、教えるための説明を同じ物差しで測ってはいけないということだ。
その説明を教師が教えられるか。学ぶ側が理解できるか。そして、初めて出会う英文にも使えるか。
古田教授の論考では、これらが指導可能性、学習可能性、使用可能性という3つの基準で語られている。私はこの考え方に賛同する。というより、自分が英文法の記事で何度も書いてきたことをたどると、その根にこの考え方がある。
以前、進行形と文型について書いた記事でも、私は五文型を「不完全だが最善」と書いた。完璧であることと、学習のために最善であることは違う。この区別は、いまも変わっていない。 また、受動態にすると目的語の位置が変わり、文型の見え方がどう変わるのかは、受動態にすると文型はどうなるのかで例文を追っています。
言語学的に正確であることと、教育的に適切であること
五文型への有名な批判に、副詞句の扱いがある。
たとえば、次の文を考えてみる。
彼はロンドンに住んでいる。He put the car in the garage.
彼は車をガレージに入れた。
五文型では、in London や in the garage は基本的に修飾語として扱われる。だが、「住んでいる」という意味のliveでは場所句が強く求められ、putも「どこに置いたのか」がなければ意味が完成しにくい。動詞が要求する要素という観点から、これらの副詞句を文の主要素として数え、SVAやSVOAを立てる分析もある。その枠組みでは、動詞と場所句の結びつきを五文型より明示しやすい。
ここまでは、その通りだと思う。
しかし、SVAやSVOAを立てる分析に利点があることから、五文型は教育に不適切だという結論は出ない。研究上は、副詞句のうちどれが動詞に要求され、どれが自由に加えられたのかを区別する価値がある。一方、英語を学び始めた人にとっては、まずSVとSVOを区別し、前置詞の後ろを大きな修飾のまとまりとして捉えられることにも、十分な価値がある。
目的が違えば、よい道具の条件も変わる。
大衆的な料理店に入り、本格的なフランス料理のフルコースが出ないと腹を立てる人はいない。毎日食べられること、選びやすいこと、満足できることには、それ自体の価値がある。教育英文法に研究文法と同じ精密さを要求するのは、この取り違えに近い。
「5つ」は完璧な分類ではなく、学ぶためにちょうどよい分類
五文型は、英語という言語を例外なく完璧に5つの型へ分類できることを発見した理論ではない。
古田教授の論考がたどっているように、その源流は学校で文法を教えるための簡素化と用語の統一にある。最初から、ありとあらゆる英文を一分の隙もなく分析するために作られたものではなかった。
だから、「五文型ではすべての英文を完全に処理できない」という批判は、事実ではあっても、それだけでは致命傷にならない。
できないことや例外を責める前に、そもそも何のために作られた道具なのかを見なければならない。
5つより増やせば、分析は細かくなる。だが、覚える負担も増える。反対に数を減らせば、覚えやすくはなるが、見分けられない関係が増える。5という数は絶対ではない。それでも、教えやすさ、学びやすさ、使いやすさの間で取れた、かなり優秀な均衡点なのだと思う。
このサイトには、不定詞の3用法は本当に3つなのかを考えた記事もある。そこでも結論は同じだった。分類は本質そのものではないが、本質へ近づく入口にはなる。入口を家そのものだと思い込んではいけないが、入口がなければ中へも入れない。
五文型は、単語をつなぐ読み方から抜け出すためにある
簡単な日常会話なら、文型を意識しなくても意味は取れる。
Call me Pat. と Call me a taxi. の違いは、文型の番号を知らなくても分かる人が多いだろう。前者は「私をパットと呼んで」、後者は「私にタクシーを呼んで」である。
それなら、五文型は不要なのか。
私はそうは思わない。簡単な文を文型で見るのは、その文を理解するためだけではない。同じ見方を、直感だけでは関係を取りにくい文へ持っていくためである。
猫は皿をなめてきれいにした。The cat licked the clean saucer.
猫はきれいな皿をなめた。
単語はほとんど同じでも、clean が目的語の状態を述べるのか、名詞の内側で saucer を修飾するのかによって、文の姿は変わる。五文型が教えるのは、正解番号ではない。語順の背後にある関係を見ることである。
日常会話の流暢さと、抽象的な文章を正確に読む力は、重なる部分こそあっても同じではない。学校英語が会話だけを目標にするなら、五文型の優先順位は下がるかもしれない。だが、高校や大学で学問につながる文章を読むことまで目標にするなら、文の構造を意識的にほどく訓練は残すべきだ。
受験英語がしてくれなかったことは、たしかに多い。話す練習も、聞く練習も足りなかった。しかし、してくれなかったことだけを数え、してくれたことまでなかったことにするのは公平ではない。複雑な英文を前に立ち止まり、構造を取り出し、意味を組み直す習慣を与えてくれたことまで、私は否定したくない。
新しさを売る仕事と、古い知恵を残す仕事
ここで、少し意地の悪いことも書いておきたい。
研究者や予備校講師の仕事には、新規性が大切だ。だからこそ、新しさそのものが価値として売られる場では、古い説明との差が必要以上に強調されることがある。そのときに、よく使われるのは「学校の英語教育は間違いだ」という論調である。
少々意地悪に言えば、古いものを排斥して、自分の考えをアピールすることが仕事なのではないか――そんな皮肉を言いたくなる場面もある。
もちろん、新しい研究も新しい教え方も必要だ。五文型より精密な理論を研究することにも、学校文法の弱点を指摘することにも意味がある。私自身、古い説明を無条件に守りたいわけではない。
ただ、新しいというだけで優れているわけではない。古いというだけで間違っているわけでもない。人文学や教育では、とりわけそうだと思う。
新しい理論が、長く教室で使われてきた説明とよく似た発想を、別の用語で捉え直すこともある。そんなとき、古い知恵は古かったのではなく、あまりに身近で、発見として数えられなくなっていただけなのかもしれない。
必要なのは、伝統か革新かを選ぶことではない。古い道具が何をうまくでき、何をできないのかを知ったうえで、新しい知見によって手入れすることである。
五文型が必要だと言うことは、五文型を信仰することではない
五文型は万能ではない。副詞句の扱いには無理がある。補語の範囲にも議論がある。動詞がどんな要素を要求するかを詳しく考えるなら、項構造や結合価という見方の方が役に立つ場面もある。
その限界は、隠さず教えればよい。
私が残したい五文型の使い方
- 文型番号の暗記を目的にしない
- 主語・述語動詞・目的語・補語の関係を見る補助線として使う
- 5つで処理しにくい文があることを、失敗ではなく道具の限界として教える
- 必要に応じてSVA・SVOA、項構造、句構造など別の見方へ進む
道具の限界を知ることと、道具を捨てることは違う。地図に書いてない道があるからといって、地図を持たずに山へ入る理由にはならない。
古田教授の論考を読み返し、今思うこと
上智大学で古田教授の授業を受けていたころ、私はいつか英文法についてこれほど長く書くことになるとは思っていなかった。
卒業後に古田教授の論考を読み返すと、いま私が大切にしていることが、よりはっきり言葉になっていた。
学問的な説明を尊重しながら、それを教育的な説明と混同しないこと。学校文法の限界を認めながら、先人が積み上げた工夫を軽々しく捨てないこと。
ひとつの正解を押しつけるのではなく、説明の目的を考えること。
五文型、そして古田先生から教わったことは計り知れない価値がある。
参考文献
- 古田直肇(2014)「受験英語擁護論――五文型の教育的妥当性について――」『ASTERISK』第23巻第1号、1-31頁。


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