✔この記事の要点
この記事は、音韻論をトピックごとに扱う『音韻論シリーズ』の第3弾にあたる『音韻論Ⅴ』となります。
今回のトピックは、弁別的素性と余剰的素性です。両者はコインの裏表のような対立的な概念です。片方を理解すれば、自ずと他方も理解できるでしょう。
ところで、そもそも音韻論とは、言語の音に注目する言語学の1分野です。その中に、〈音素〉という重要概念があり、この音素は弁別的素性の束として捉えることが可能です。
音素と弁別的素性はとても強い繋がりがあります。
》【音韻論Ⅲ】音素と異音(条件異音/自由異音)について【図解】でわかりやすく
弁別的素性を知ることは、音素の理解を深めることに繋がります。
具体的なトピックは以下の通りです。
トピック
- 用語の確認
- 弁別的特徴の定義と具体例
- 余剰的特徴の定義と具体例
「弁別的特徴」という観点から、音韻論や音素という抽象的な概念についての理解を深めていただけたら幸いです。
当記事で使う用語の説明
当記事の用語の共通化をしておきたいと思います。
〈弁別的特徴〉には、様々な異なる呼び名が付いています。下記はその一例です。
色々な呼び名
- 弁別的特徴←当記事ではこれ!
- 弁別特徴
- 弁別的素性
- 弁別素性
- 音素素性 (phonemic feature)
当記事では、最初の〈弁別的特徴〉という用語も採用することにします。
また、〈余剰的特徴〉についても同様です。〈余剰(的)特徴〉と〈余剰(的)素性〉は同一のものだとお考えください。
以上が用語の共通化です。そんな大したことではありませんが、こうした用語の些細な呼び名の違いで混乱してしまう気持ちも分かるので、最初に明記しておきます。
弁別的特徴と余剰的特徴の定義
まずは2つの定義から見ていきます。
まずはこの簡単な定義を頭の片隅に留めておいてください。以降で、具体例を見ながら深掘りしていきます。
まずは〈弁別的特徴〉からです。
弁別的特徴(distinctive feature)の定義と具体例
次の2つの単語を比べてみてください。
pig [pɪg] | big [bɪg] |
両者の違いは、文頭の[p]か[b]かの違いだけで、その違いが単語の意味の違いを生み出しています。
したがって、[p]と[b]は英語において異なる音素に属することが分かります。
そして、[p]と[b]の両者の間で異なる音声学的な特徴こそが〈弁別的特徴〉ということです。
IPAチャートを見てみる
ここからは〈調音音声学〉の知識を使います。IPAチャートの出番です。
詳細は【音声学Ⅵ】子音の全体像 (分類・種類・チャート・調音記述・IPA記述・具体例)に書いてある通りですが、一般的に子音という音は下記の3つの基準から分類・区別することが可能です。
子音の分類基準
- 有声性 (voicing)
- 調音点 (place of articulation)
- 調音法 (manner of articulation)
この3つの基準に基づく、以下のようなIPAチャートが作成されます。
このようなIPAチャートを調音音声学では扱います。
》【音声学Ⅰ】音声学とは何か?定義/種類/音韻論との違いをわかりやすく解説
さて、ここで、[p]と[b]の両者の間で異なる音声学的な特徴を探してみましょう。
すると、[p]と[b]の両者の間で異なる音声学的な特徴は、①の〈有声性〉であることが分かります。
一応、他の音声学的特徴も見てみると、[p]と[b]の両者は、②の調音点の観点では〈両唇音〉で共通で、③の調音法の観点では〈破裂音(または閉鎖音)〉で共通だと分かります。
したがって、[p]と[b]の両者の間で異なる音声学的な特徴は、〈有声性〉だけであり、このたった1つの違いだけで[p]と[b]の両者を区別していることになります。
ここまでで分かること
つまり、次のことが言えます。
⇩
[p]と[b]の間で異なる音声学的特徴は〈有声性〉である
⇩
英語において〈有声性〉は〈弁別的特徴〉である
なんとなく、「弁別的特徴とは音素同士を区別するための音声学的特徴である」ということを分かっていただけたと思います。
もちろん〈有声性〉以外にも英語における〈弁別的特徴〉はあるわけですが、簡単な全体像については後述しています。
関連記事のリンク紹介
こんな感じで〈弁別的特徴〉を理解するには、音韻論の音素の知識と(調音)音声学のIPAの知識が必要になります。下記に該当記事を載せておきます。
》【音韻論Ⅲ】音素と異音(条件異音/自由異音)について【図解】でわかりやすく
》【音声学Ⅰ】音声学とは何か?定義/種類/音韻論との違いをわかりやすく解説
どちらもかなり分かりやすく説明しています。
余剰的特徴(redundant feature)の定義と具体例
次は〈弁別的特徴〉の裏返しの概念である〈余剰的特徴〉についてです。
「余剰」というのは「必要分を超える」という意味ですが、ここでは「音素を区別するために必要な分を超えている=余計」ということです。
英語における弁別的特徴の具体例
ここからは具体例を見ていきます。
英語には〈帯気音〉と呼ばれる音があります。
英語の場合は、[p][t][k]、即ち〈無声破裂音(voiceless stop)〉がある特定の音韻環境で帯気音に変化し、その音声変化を〈帯気音化(有気音化)〉と言います。
また、IPAでは、帯気音であることを表すために該当する子音の右上に小さな「h」を記し、[ph] [th] [kh]のように表記します。
このように、異なるIPA表記をするということは、、[p]が[ph] は物理的な発音が異なるということを意味します。どのように異なるのか言うと、「帯気音化した場合は、調音器官の開放より少し遅れて母音の声帯振動が始まる」とされています。
今回は[p]と[ph] の具体例を載せておきます。
普通の[p]の例 | [p]が帯気音化した例 | ||
単語 | IPA | 単語 | IPA |
spin | [spɪn] | pin | [phɪn] |
spat | [spæt] | pat | [phæt] |
spot | [spɑt] | pot | [phɑt] |
up | [ʌp] | pain | [phejn] |
左右のIAPを見比べて、[p]が[ph] に変化する環境・条件を考えてみると、次のようなことが分かります。
これが帯気音化の条件です。
ここで〈分布〉の考え方を使います。
上記の比較から、p]と[ph] は登場する位置、即ち分布が決して重なることがなく、〈相補分布〉にあることが分かります
そして、相補分布に登場する2つの音は同じ音素に属する異音だと分かります。
⇩
[p]と[ph] は同じ音素に属する異音である
更には、「音節の初めにある[p]が[ph] に変化する」という音韻環境(条件・位置)も特定できるため、[p]と[ph]は〈条件異音(位置異音)〉です。
》【音韻論Ⅲ】音素と異音(条件異音/自由異音)について【図解】でわかりやすく
ここまでで分かること
ここまでのことを整理して、〈余剰的特徴〉と紐付けていきます。
⇩
でも[p]と[ph] は同じ音素に属する条件異音の関係にある
⇩
英語において帯気音[h]は、弁別的特徴ではなく余剰的特徴である
更に分かりやすく理解するには〈弁別的特徴〉の定義を思い返してみましょう。
〈弁別的特徴〉とは音素の区別のために役立つ音声学的特徴でした。たしかに、[p]と[ph] のには音声学的に異なる特徴があったものの、〈相補分布〉を成していることから[p]と[ph] は同じ音素に属する異音同士であることが分かります。
両者が同じ音素に属するということは、両者の間で異なる音声学的特徴(=帯気音)は音素の区別に無関係であることが分かります。従って、〈弁別的特徴〉ということです。
関連記事のリンク紹介
こんな感じで、今回は〈帯気音〉と〈分布〉の知識が必要でした。下記に該当記事のリンクを載せておきます。
》【音声学Ⅷ】音声学における音の変化(帯気音化・母音鼻音化・長母音化)
》【音韻論Ⅳ】音素の決定方法(音素論)と分布 (対立分布・相補分布)を【図解】でわかりやすく
どちらもかなり分かりやすく説明しています。
弁別的特徴と余剰的特徴の定義の再確認
ここでもう一度、2つの定義をご覧ください。
実はここに重要なことが書かれています。それは、「ある言語における」という部分です。
ここでいう「ある言語」とは、日本語とか英語とかスペイン語とかです。
これが言わんとすることは、ある言語では弁別的特徴であるものが、ある言語では弁別的特徴ではない、即ち余剰的特徴であるということがあり得るわけです。
以降ではそのことを説明していきます。
弁別的特徴かどうかは言語によって異なる
英語とクメール語の対照を通して、弁別的特徴かどうかは言語によって異なるということを説明します。
英語の場合
先ほど、〈帯気音〉と〈相補分布〉のことから、英語では帯気音[h]は、弁別的特徴ではなく余剰的特徴であることを説明しました。
⇩
でも[p]と[ph] は同じ音素に属する条件異音の関係にある
⇩
英語において帯気音[h]は、弁別的特徴ではなく余剰的特徴である
ここでの結論は、英語において帯気音[h]は、弁別的特徴ではなく余剰的特徴である、ということです。
クメール語の場合
それでは、クメール語の場合はどうでしょうか?
まあ英語と同じだったらここに出てこないわけですから、結果は見えてますね。
クメール語では、ある子音が帯気音化すると、単語の意味が変わります。
今回は、[p]以外にも[t]と[k]の例も載せておきます。表の左右で意味が違うことを確認してください。
帯気音ではない | 帯気音 |
[pɔ:ŋ] (‘to wish’) | [phɔ:ŋ] (‘also’) |
[tɔp] (‘to support’) | [thɔp] (‘be suffocated’) |
[kаt] (‘to cut’) | [khаt] (‘to polish’) |
上記の表は原語(クメール語)は載せていません。( )内は対応する英語を表しています。とにかく左右で意味が違うということだけ分かれば問題ありません。
つまり、代表例として[p]と[ph] について次のように言えます。
⇩
そして[p]と[ph] は単語の意味の区別に関わっている
⇩
つまり[p]と[ph] は異なる音素に属する
⇩
クメール語において帯気音[h]は、弁別的特徴である
ここでの結論は、クメール語において帯気音[h]は、弁別的特徴である、ということです。
英語とクメール語のまとめ
以上の分析を図解でまとめておきます。
これが、弁別的特徴かどうかは言語によって異なるという文意です。
そもそもを言えば…
英語における弁別的特徴の一覧表
今まで弁別的特徴・余剰的特徴の定義や具体例、そして弁別的特徴かどうかは言語によって異なるという性質を見てきました。
英語という言語に限って言えば、どんな音声学的特徴が弁別的特徴として役割を果たしているのでしょうか?
1つずつ解説することはできませんが、全体としては以下のようになっています。
表の見方だけでも解説できたらと思います。
まず、横方向に分析対象とする子音を〈調音法〉に基づく分類で並べていきます。
そして、表の左側には縦方向に弁別的特徴が並べられていて、横方向に見るとその弁別的特徴を有している音には+(陽性)が振られ、有していない音には-(陰性)が振られています。
上記のような一覧表を使うと、全ての子音をある特徴の±によって定義することができ、「音素は弁別的特徴が集まってできた束である」と言うことができるかもしれません。実はこれはある音韻論の分野で土台となる考え方だったりもします。
余談:日本人が苦手なLとR
よく話題にあがる「日本人はLとRの区別ができない」ということを今回学習した〈弁別的特徴〉から考えてみたいと思います。
結局のところ、「日本語にはLとRの区別がないから」ということになるのですが、言語学を学んでいるならもう一歩踏み込んで理解してみたいものです。自分の目で見ている世界の解像度が上がる、これが何かを学ぶことの醍醐味の1つだと思います。
「日本語にはLとRの区別がない」と言いますが、当然ながら英語では区別があるということです。それでは、英語においてLとR(厳密に書くと/l/と/ɹ/)を区別する原因、つまり/l/と/ɹ/の〈弁別的特徴〉は何なのか考えてみましょう。
下記の素性表から、/l/と/ɹ/の異なる特徴を探してみると、両者でたった1つだけ異なる特徴が見つかります。
/l/と/ɹ/)の両者で異なる特徴(弁別的特徴)は、Manner featuresの欄の[lateral]です。/l/が[+lateral]であるのに対し、/ɹ/は[-lateral]になっています。
Manner featureの[lateral]とは何なのでしょうか?詳細は、【音声学Ⅵ】子音の全体像 (分類・種類・チャート・調音記述・IPA記述・具体例)を見て頂くとして、1つずつ解説していきます。
まず、Manner featureは〈調音法〉のことで、簡単に言うと「どうやって発音するのか」という音の出し方の観点になります。
次に[lateral]とは日本語で〈側面音〉と呼ばれる音です。[+lateral]という側近音は、「調音する際、舌の中央部分(側面を除く一部分)を上顎に密着させて口腔内の声道の中央部分の空気の流れを塞いだまま、舌の脇(片側または両側)を開放して起こす音」です。軽く意味不明ですが、[lateral]という側面音はこのようにして調音します。そして、この〈側面音〉の弁別的特徴を有している(+)のが/l/ということになります
つまり、日本語話者がLとRを区別できないのは、「側面音かどうかを区別できない」と言い換えることができるのです。なぜなら、日本語にとって[lateral]は〈弁別的特徴〉として機能しない余剰的特徴だからと考えることができるでしょう。
その証拠に、上記の表の中には日本語にも存在する音素が当然書かれているのですが、その中で。[+lateral]を有しているのは/l/だけです。
ここまでの知識をゲットした皆さんは、「日本人はLとRを区別できない」という単純化された回答を「日本語は[lateral]を弁別的特徴として採用していない」という音韻論の知識に基づいた回答に辿り着くことができました。
現在も活発に議論されている弁別的特徴
最後に〈弁別的特徴〉のまとめとして、補足説明と未解決なトピックについて言及しておきます。
音素をさらに一段深く分析すうために必要な〈弁別的特徴〉ですが、どのような弁別的特徴を用いるべきかについてはいまだ議論が続いています。
これは言語学内の派閥や思想によって異なるのですが、ある立場の学者は全てを二項対立的に捉えたいと思ったり、ある立場の学者は全ての言語で共通の弁別的特徴を設定したいと思ったりしている次第です。
このような背景を踏まえ、今日の言語学では弁別的特徴に関わる下記のトピックの議論が未だに続いています。
未解決トピック
- 弁別的特徴は、全ての言語に共通か?
- 弁別的特徴は、どのように話者に獲得されるのか?(先天的か後天的か)
- 弁別的特徴の表記の仕方(特徴を持つ(=陽性)音に+を振るだけで、素性を持たない(=陰性)の音には何もフル必要はないのではないか?)
- 弁別的特徴は、全て音声学的な性質に基づくものなのか?(音声学と音韻論の接点)
- …などなど
少しでも興味をもつきっかけとなれば幸いです。
全体のまとめ
これにて『音韻論Ⅳ』は終了です。
今回は音素を区別するために使われる〈弁別的特徴〉や、その反対概念である〈余剰的特徴〉について、以下のポイントについて見てきました。
- 弁別的特徴
》ある言語における、音素同士を区別するための音声学的特徴 - 余剰的特徴
》ある言語における、音素同士を区別するためには関係のない音声学的特徴 - 弁別的特徴かどうかは言語によって異なる。
音韻論に関する記事はこれからも作成していきます。
コメント